おたくに関する噂

おたくに関する噂

テレビのニュース・アナが、だしぬけにおたくのことを喋りはじめた――

#2. インターネットに何かを発信することに対する恐怖

今回は日本語の記事です。基本的にTwitterで私をフォローしている人からしか見られていないこのブログで、フォロワーの中でも解する人が数人しかいないアゼルバイジャン語で記事を毎回書き続けても仕方がないですし、そもそも複雑な思考を克明に記すことが出来る程の領域に達してもいません。というわけで大部分の記事は日本語で書くことになるのかなと思います。

前置きという名の自分語り

嘗ての自分は所謂「ツイ廃」と呼ばれる存在であったように思う。高校生だった私は、毎日毎日飽きもせずインターネットの海に一日当たり数十から数百のツイートを放流し続けていた。今となっては何をそんなにツイートすることがあったのか皆目見当もつかないが、当時のスクリーンショットの断片を見るに毎日毎日同じような内輪ネタを擦り、毎日毎日同じようなやり取りをしていたようだ。つまりは「無」であり、何も発信していないのと変わりがない。今でも場が移っただけで似たようなことは全くやめられていないのだが、それにしても代わり映えがなさすぎて我ながら閉口してしまった。当時は不思議とそれなりのフォロワーがおり、また何をツイートしても反応が来たが、果たして当時のフォロワーが何故私と関わりたいと思ったのだろうか。未だに分からない。ただまあこの時の自分は「無」でありながらも満たされていたことだけは確かである。

翻って今はどうだろうか。一日数百のツイートは大幅に減った。日によっては全くツイートをしないこともあるくらいだ。ツイートする内容も、何かしらの行動の後の報告と日常生活の断片が殆どだ。とはいえTwitterを開く時間が減ったわけではなく、代わりにただ無為にタイムラインを眺めたり、卑猥な絵画に「いいね」をつけたりすることに勤しむようになった。相変わらず、私はインターネットで何も発信していない。

矛盾

Ancaq 2019-cu ildən bəri bloq yazmamışam, ona görə bloqda nə yazacağım bilmirəm.

和訳:しかし、2019年以降私はブログを書いていないので、ブログに何を書けば良いのかがわかりません。(俺のアゼルバイジャン語間違ってるかも)

ところで、前の記事(#1.)でも上のように書いたが、私は三年前にブログを書いていたことがある。私が日々の生活で感じた疑問やインターネットについて、露骨にウケを狙おうとあまり使い所が上手くないインターネットスラングを交えつつ薄い分析ごっこをして悦に入っているのが透けて見える稚拙なものであり、今読んでみると結構キツいが、確かに私はこの間「何かを発信していた」のだ。私のインターネット活動における稀有な例外である。

しかし、過去形であることからもわかる通りこのブログは一年ちょっとでやめてしまった。やめてしまったことの直接の原因は書くことがなくなり飽きてしまったことなのだが、この後が問題である。ブログを書かなくなってから数ヶ月後、私はもう書かなくなっていたブログを見返して、そこに綴られた浅い分析や寒いスラングを直視し、そしてこう感じた。

「こいつ馬鹿だ」と。そのままブログは非公開になった。

私はこれ以降インターネットに自らの思考や分析を放流することを自覚的に忌避するようになった。最初に滔々と語ったように、それまでもあまり思考を表に出していなかったわけだが、これに関してはただ自分の愚かさ故に表に出すような思考自体が無かったという方が正しいだろう。

私は浅い思考を発信することで、他人から愚物であると見做されることを恐れたのだ。ブログを読み返した自分がそう感じたように。知性を至上とする価値観を持っていた私からすると、愚かだと思われることは非常に耐え難いことだった。自分の愚かさは当時痛いほど理解していたつもりではあったが、それを受け入れることができる賢さすら持ち合わせていない程の愚物だったようである。

その結果、私のツイート群は先述のように何かの行動の報告と日常生活の断片が殆どになった。

「なにかの感想を申し訳程度にツイートする時は思考を感じ取られないようになるべく簡単に。ズレたこと言ってたら嫌だし。俺と同じこと考えてる人も念のため探しておこう。でも俺の拗らせた考えをツイートしたらちょっとウケるかな。思ったことがあったら鍵垢で言おう…」

しかしながら、ここで大きな矛盾が生じる。自らの愚かさを隠蔽するために何も発信しないのと、単純に発信する思考がないために何も発信しないのは発信する側からしたら大きな違いかもしれないが、それを観察する側からは判断することが不可能だし、何も考えていないのと同じである。寧ろ、「ズレたことを言ってたら嫌」故のあまりに簡単な感想ツイートなんかは私の愚鈍さをこれまでになく顕在化させるものだろう。

私はこの事実を前に大いに苦悩した。どうすれば俺はズレてる馬鹿だと思われずに済むんだろう。

歪んだ自尊心との戦い

長い間苦悩した結果、私は漸く結論に辿り着いた。結局は自分の愚かさと向き合いつつ思考をある程度表に出すしか無い。何も考えていない馬鹿であるよりも考える馬鹿であるほうが好ましい。それは容易に導き出せる結論でありながらも、私が現実を直視せず逃げていたために全く見えていなかったことでもあった。

そこでブログである。前の記事では語学学習のために外国語でブログを書いて運用能力の向上を図りたい、といった旨のことを書いたが、それは「外国語でブログを書く」ことの理由にはなっても、「日本語でも記事を書く」という点が意味不明だ。

つまり、もう一つの理由があるわけで、ここまでの長文を辛抱強く読んで頂いた皆様には自明のことだと思うが、それは「具体的な思考を表に出す」ことである。Twitterでもなるべく心がけたいとは考えているが、より具体的な思考を表現するために140文字という制限のないブログを始めることにしたのだ。またこれは過去のブログとの和解と思考の隠蔽との決別の象徴でもある。今後このブログには私の愚かで浅い言説が細々と投稿されていくと思うので、「またあの愚物が何か喚いてるぞ」くらいの気持ちでご笑覧頂ければ幸いである。

 

 

ということで、なんでブログ始めたの?って話でした。

 

終わりだよ~